先日、少し久しぶりに映画館で映画を観たのだが(『時々、私は考える』)、またしてもすぐに書くのをうっかりしているうちに、次の映画『チャイコフスキーの妻』を観てしまったので、両方について簡単に感想を書いてみたいと思う。
『時々、私は考える』(監督:レイチェル・ランバート)
何だかパッとしないタイトルだなあと思っていた。
原題は『Sometimes I Think About Dying』だから、趣が異なる。
このままだと直接的すぎると懸念したのだろうか。
主人公フラン(デイジー・リドリー)は、友人も恋人も作らず、自宅と仕事場を淡々と往復する静かな日々を送っている。唯一の趣味みたいなものは、自分の幻想的な死を空想することだった。そんなある日、職場に新しい同僚ロバートが入社し、少しずつ距離を縮めていくことになるのだが…
当然ながら、ぶっきらぼうな衝突が生じたりする。
それでも、フランはロバートに対して謝罪の言葉や自分の気持ちを伝え、コミュニケーションを取ろうと努めるのだ。
だから、完全なる自閉キャラクターというわけではなく、他者と交流したい欲求もあるし、彼女独自の想像力を外部に向けて表現すれば、色々な人たちと関わり合うこともできる。
そのことに気づいていくプロセスが丁寧に描かれ、現実と空想が溶け合う境地に引き込まれていく。
そして、『チャイコフスキーの妻』(監督:キリル・セレブレンニコフ)
1〜2年ほど前に京都で特別上映が行われた際に、ヤングシネフィルらが東京から駆けつけていたので、よほど面白いのかと思って楽しみにしていた。
『LETO』の監督ということもあったのだろう。
女性の権利が著しく制限されていた19世紀後半の帝政ロシア。天才作曲家ピョートル・チャイコフスキーには、かねてから同性愛者だという噂が絶えなかったが、恋文で熱烈に求愛する地方貴族の娘アントニーナと、世間体など考えて結婚する。だが、女性への愛情を抱いたことがないチャイコフスキーの結婚生活はたちまち破綻し、夫から拒絶されるアントニーナは、孤独な日々の中で狂気の淵へと堕ちていく…
…とまあ、面白いというよりも、観ている間中ずっとしんどい映画であった。
最初はただの可愛い子ちゃんだったアントニーナが(少し観ていくと、変だぞこの女!ということに気づくのだが、女に無関心なチャイコフスキーは捕まってしまう)、どんどんボロボロに壊れていく。
もっと彼女に客観性があったなら、辛いけれども、チャイコフスキーが自分の音楽と若い男にしか興味がないことを受け入れて、彼の前から立ち去れるだろう。
思い込んだらずっとそのことに執着する性質は、精神を病みやすい。幸せに生きることも難しい。さらりと気楽にこだわらないのが、ごきげんに生きる秘訣なのだ。
世紀の悪妻と呼ばれたアントニーナが、ただただひたすら狂愛に突き進み、破滅する様を見る映画。
一般的に「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」といった夢に満ちたバレエ音楽で知られるチャイコフスキーのプライベートライフを垣間見たい人は、興味深く観られるかも。
実際、チャイコフスキーは3カ月で結婚生活から逃げ出し、その後40年間アントニーナと会おうとしなかったらしい。彼女の最期は精神科病院の中だったという。